「わが家の歴史館」を
お作りいただいた方々の後書き
「A家の歴史」 あとがき S、S氏 M、S氏
これまで、A家の歴史を残そうと何度か試みてきましたが、出版まで至りませんでした。
今回、こうして出版できましたのは、2003年が、Yさまが、
日本初の常設映画館「電気館」を浅草に開設して100年目に当たる年であったこと、
又、S、T氏(S、T、 Sご夫妻の二男)の勧めがあったことによります。
A家一同、心から感謝いたします。
また、2003年は江戸開府400年の記念の年でもありました。
浅草でも数々の記念行事が行われました。
NHKの朝の連続ドラマ「こころ」がヒットし、舞台となった浅草の観音様、
雷門、三社祭、ほうずき市、隅田川の花火大会などが放映されました。
その人気で浅草を訪れる人が増えました。
10月には江戸の町並み浅草奥山全景が再現され、
「平成中村座」の中村勘九郎座長による歌舞伎公演は大人気でした。
6区ブロードウエーも賑わいました。
この本の出版の年に多くの人が浅草を訪れ、
かつて日本一の盛り場だった浅草が賑わいを取りもどした事はとても嬉しいことでした。
Y、I叔父様、母R、A、 M、A叔母様から私達の知らなかった
A家の歴史を聞くことができ、子孫にこの本を残す事ができた事は、
喜ばしいことと感謝いたします。
又、「日本の心 わが家の歴史館」を出版されている
「いい話の新聞」との出会いに心から感謝いたします。
2003年12月
「我が父の魂」 あとがき M、M氏
何年前になるでしょうか、M家の家系図を作っておきたい。と主人が言い出しました。
主人の父は、主人が生まれる前に戦死致しております。
ところが、奇しくも昭和52年8月18日に父の遺品の日の丸が朝日新聞に掲載されました。
9月9日には、その日の丸が主人の手に渡った記事ものりました。
その時から主人の父への想いが深まったといってよいでしょう。
幼児の頃は祖父母に育てられ、私に事有る毎に祖父母から聞いたことを話してくれました。
祖父の戦地での活躍のこと、自分の父親のこと、祖父母の名コンビの子育て等々。
この事を子供たちにもよく話しておりました。
自分が生きている間に書物にしておきたいと思ったのでしょう、
今はただ一人生きている千代子叔母に助けられながら下書きができた頃、
主人は思いも掛けない病に倒れてしまいました。
どれだけこの本の出来るのを楽しみにしていたことでしょう。
会社は今、大変苦しい状況が続いておりますが、
主人が皆々様からいただきました信用を大切に心の励みに致します。
主人が私たちに色々教育してくれ、今の私たちがあることを深く感謝し、
子ども、孫、曾孫と末代まで末永く受け継いで力一杯生きていく事を心に誓っております。
「いい話の新聞」とのご縁があり、生前に纏めてもらっていましたことで、この出版となりました。
感謝申し上げます。
「月明かりに照らされて」 あとがき M.N氏
ある会の会長の教えで、親孝行の大切さで、経営学はもとより、人生哲学を学ばせて頂きました。
親孝行は生きているうちにせよと言われます。
この親父の本は、お話を聞いた瞬間、これだと思い、早速、依頼いたしました。
私は大東亜戦争直後の昭和二十二年生まれですが、
私を長男に、M雄、T子、A雄の四人兄弟で育ちました。
私が誰より一番数多く、親に心配と苦労を掛けました。
二歳の時、進駐軍の貨物列車にはねられ、奇跡的に助かったのですが、
その時の親の気持ちは、私自身が親になって始めて理解しました。
万事がこれで、親の愛がどんなものか、そしてその恩に報いることが、
人の道と言うものではないかと、過去の親不孝を悔いつつ、この本の制作となりました。
△△紙器を創設し、私達三兄弟に託す時、毛利元就の“三本の矢”の話が、今も新鮮です。
寝る間が有ったら働け、他人に頼らず自分に頼れ。
自分が温まるには風呂の湯を手前にかき寄せるのではなく、反対に押してみろ、
そのうち背中に回って温まる。
これらの教えがあればこそ、今の私達があることを、深く感謝せずにはいられないのです。
これからも、お二人揃って元気に、長生きしてください。
親孝行の本番はこれからです。
「波瀾万丈に生きて」 あとがき T、K氏
昨年の四月に大学卒業後、二年間銀行に勤めていた長男が当社に入社しました。
彼はゆくゆく三代目の後継者になってくれるでしょう。
私は事業を譲り渡す側と受け継ぐ側の両方の立場を経験しようとしています。
事業を受け継ぎ、自分なりのやり方で繁栄に導く者の苦しみや喜び、
自分の育ててきた事業を次の世代に託す者の喜びを今、噛み締めています。
このようなことを考えている時、脳裏に蘇ってくるのが、
幼い日に見た一心不乱に働く会長の姿でした。
創業者である会長は、幾多の失敗にもめげずこの事業をそしてこの業界を守るために
必死になって働き続けてきました。
困難を恐れない勇気やひとつのことにとことんまで打ち込むねばり強さ、
そして多くの人を包み込む包容力などは経営者ならずとも、人として育んでゆきたい資質です。
これらのことを会長は経営という場を通して私達に指し示してくれたような気がしてなりません。
ここ数年、当社では毎年十数名の新入社員を迎え入れています。
創業時のことを知らない人たちがやがてこの企業の中核をなすようになるでしょう。
こういった人たちにこの本を通して企業の歴史を知ってもらいたいと願っています。
奇しくも今年の五月初めに会長夫妻は金婚式を迎えました。
記念すべきこの年に企業の歴史を記したこの本ができ上がりました。
この本が幾世代にも渡って読み継がれてゆくように、
そしてこの企業が永遠に繁栄し続けることを願ってやみません。
「五十年誌」
発 刊 に あ た っ て K、N氏
平成13年1月14日日曜日定時株主総会が無事終了し昼食会が始まった。
いつものようにあれやこれやと昔話に花が咲き一座はひときわにぎやかな雰囲気になっていた。
そんな中一人の株主から「質問、質問、社長質問が有るんだげんとも」と明るい大きな声で
「今年は50期なんだげんどあど何が考えでいねんだがっす」と問われた。
そのとき私は、正直なところ昨年開催した第13回○○祭を終えていたし、
今回株主さん向けに記念特別配当を決議したばかりだし、
あとはお得意様並びに仕入先関係業者様向けに記念品を準備し、
そして役職員むけの記念旅行を実施すれば一連の計画は終わるはずだし、
その他のことは考えていなかった。
むしろ3年後にやってくる創業90周年をどうしようかと考えていたものだから、
そうだね「何がさんなねごとでもあるんだれば」などと気安く答えた。
座は、記念事業と言うことですでに終わった○○祭のことや、
これからの旅行などいろんな話で盛り上がった。
中でも気になった話題が記念式典と記念史発刊であった。
この件は、2月11日の創業記念日までにまとめて発表することで収めた。
ところで記念史となると本格的な調査と資料収集そして分析確認が出来なければ
意味をなさないものだし、アシスタントが居る訳でもないし、
ルーチンワークと並行しての現実を鑑みて志の記念誌で勘弁してもらうことにした。
それでも内心、大変なことになると思った。
しかし、ここらで一整理しないと100周年まで流されてしまう恐れがあると思った。
また、設立に携わった人達が健在な時でなければならないと思った。
8月には、修行に出ている倅が戻ってくるので○○を知るのには、
実にタイムリーな事だと思った。
また、これまでの事これからの事を考えたとき、過去を知らずして未来への発展は
語れないとも思った。
さらに、第14回○○祭が丁度50期を挟んだ形で来年開催することになるので、
51期のスタ−ト時にふさわしい行事ととらえ記念事業の追加にと思案した。
(中略)
一方記念誌は、当初いっこうに進まず暗礁に乗りかけていた。
そんな時救世主が現れた。大阪の「いい話の新聞」である。
「いい話の新聞」には、わがままと怠慢で甘える小生に適切なアドバイスと指導、
時には叱咤と激励を吐きながらのことで大変ご苦労をおかけ致したことを
反省するとともに深く御礼を申し上げます。
残すところ10数年で創業100周年を迎えることになる。
そのときは、記念史といえるものにする新たな夢を描いて御挨拶とさせていただきます。
最後に原稿や資料そのほかでお世話を戴いた多くの方々に
深甚なる敬意を表すとともに心から御礼を申し上げます。ありがとうございました。
平成14年12月
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